コラム
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【11.03.16】津波に直撃された千葉県旭市
海辺の町は瓦礫の山に
九十九里浜の一番東側、千葉県旭市。津波で死者、行方不明者が出ていると聞き、早く現地に駆けつけたいと思っていました。JR総武線が千葉まで運転することになり、千葉から党県議団事務局のKさんに来るまで迎えにきていただき、市内に入ることができました。
最も被害が大きい旧飯岡町。瓦礫の町に変わり果てていました。
海沿いの歩道のガードレールがぐにゃりと曲がり、波が一気に押し寄せたことがわかります。
そして直撃を受けた家々は…
ブロック塀が完全に倒れ、家はどこかに流されてしまった。
一階が津波に破壊された家のなんと多いことか。
住むこともできなくなった家、それでも、砂をかきだし、ドロだらけになった畳を運び出し、木っ端になった壁、めちゃめちゃになった家具、ゴミになってしまった家財道具を道路に出す作業がもくもくと続いていました。
一階が津波に破壊された家のなんと多いことか。
住むこともできなくなった家、それでも、砂をかきだし、ドロだらけになった畳を運び出し、木っ端になった壁、めちゃめちゃになった家具、ゴミになってしまった家財道具を道路に出す作業がもくもくと続いていました。
旭市は今日からボランティアセンターをたちあげ、船橋市、八千代市、いすみ市などテープでつくった名札をつけた人たちが、あちこちで作業をしていました。
けれど、どこから手をつけていいのかと、思えるほどの被害。
土台も柱も被害にあっている家での作業が安全かもわからないなか、ボランティアの力にも限界があるように思えます。
「お疲れ様です。大変でしたね。国会から調査にきたんです」
声をかけていいのかどうか逡巡しましたが、思い切って、道行く人に声をかけました。
「私は地震が来てすぐに親戚のところに移動したの。今日様子を見にきたら、きれいさっぱり家がどこかに消えてしまって…」
それから、どんなふうに津波が襲ってきたのか、どこに避難したのか、近所の家がどんな状態かなど次々に話をしてくださいました。
大変な経験をされたのです。そのことを話すことも大切なことなんだと、話を伺いながら気がつきました。
なかには「共産党がこんなところまで来てくれるとは」と、涙を流して話してくださった方もいたそうです。
けれど、どこから手をつけていいのかと、思えるほどの被害。
土台も柱も被害にあっている家での作業が安全かもわからないなか、ボランティアの力にも限界があるように思えます。
「お疲れ様です。大変でしたね。国会から調査にきたんです」
声をかけていいのかどうか逡巡しましたが、思い切って、道行く人に声をかけました。
「私は地震が来てすぐに親戚のところに移動したの。今日様子を見にきたら、きれいさっぱり家がどこかに消えてしまって…」
それから、どんなふうに津波が襲ってきたのか、どこに避難したのか、近所の家がどんな状態かなど次々に話をしてくださいました。
大変な経験をされたのです。そのことを話すことも大切なことなんだと、話を伺いながら気がつきました。
なかには「共産党がこんなところまで来てくれるとは」と、涙を流して話してくださった方もいたそうです。
赤旗読者の方の家は、1階の床もなくなっていて、あばら骨のように家の骨格が残っているだけ。
「津波だ」という声が聞こえてすぐに、勝手口のドアを破って濁流が一気に流れ込んだそうです。
1階の天井から10センチ足らずのところまで水の後が残っていました。
危機一髪2階に逃れ、あとは水の音に震えながら津波がひくのを待っていたそうです。
この家の海側には、どこから流れてきたのかわからない屋根が残されています。
そしてその隣は、家があったはずのところが空き地のようになり、どこから流されてきたのかわからない物置のようなものが横転しています。
さらに隣の家は、基礎部分から家がうきあがり、奥の家にぶつかったことがわかります。
旭市は全半壊の家が500棟を超え、一部損壊の建物も1145棟にのぼります。
津波の第1波は10センチ程度だったといいます。
そして第2波が1時間半後に襲ってきた、これが死者12名、行方不明3名の悲劇をうみました。
地震直後は避難した人が、1時間以上経てばもう大丈夫だろうと、帰り始めたところに2メートルを超えるような津波が襲ってきたといいます。
明智忠直市長にもお会いすることができました。
「この地域に大きな津波が襲ってきたという記録がない。歴史上初めてのことではないか」
「東北地方の被害が大変で、仮設住宅も東北の方でどれだけ必要かを見定めないとということかもしれないが、旭市は仮設住宅を建てる場所もある。高齢者も多く、市外に出るのは困難。ライフラインの復活しているので、仮設住宅さえあれば当面の生活を保障できる。可能なところから仮設住宅を設置し始めることはできないか」
被災者の規模に見合うだけの仮設住宅の資材調達ができていないと聞いています。
可能なところにつくりながら、あらたな資材調達をすることはできないか、検討が必要だと思いました。
「津波だ」という声が聞こえてすぐに、勝手口のドアを破って濁流が一気に流れ込んだそうです。
1階の天井から10センチ足らずのところまで水の後が残っていました。
危機一髪2階に逃れ、あとは水の音に震えながら津波がひくのを待っていたそうです。
この家の海側には、どこから流れてきたのかわからない屋根が残されています。
そしてその隣は、家があったはずのところが空き地のようになり、どこから流されてきたのかわからない物置のようなものが横転しています。
さらに隣の家は、基礎部分から家がうきあがり、奥の家にぶつかったことがわかります。
旭市は全半壊の家が500棟を超え、一部損壊の建物も1145棟にのぼります。
津波の第1波は10センチ程度だったといいます。
そして第2波が1時間半後に襲ってきた、これが死者12名、行方不明3名の悲劇をうみました。
地震直後は避難した人が、1時間以上経てばもう大丈夫だろうと、帰り始めたところに2メートルを超えるような津波が襲ってきたといいます。
明智忠直市長にもお会いすることができました。
「この地域に大きな津波が襲ってきたという記録がない。歴史上初めてのことではないか」
「東北地方の被害が大変で、仮設住宅も東北の方でどれだけ必要かを見定めないとということかもしれないが、旭市は仮設住宅を建てる場所もある。高齢者も多く、市外に出るのは困難。ライフラインの復活しているので、仮設住宅さえあれば当面の生活を保障できる。可能なところから仮設住宅を設置し始めることはできないか」
被災者の規模に見合うだけの仮設住宅の資材調達ができていないと聞いています。
可能なところにつくりながら、あらたな資材調達をすることはできないか、検討が必要だと思いました。
海匝漁業協同組合も訪問しました。
漁港は、地面に乗り上げた漁船、沈んで頭のごく一部だけが見えている漁船、横倒しになった漁船があちこちにみてとれます。
海に沈んだ網をまきあげる作業に、何人もの若い人たちがかかりきりになっていました。
常務理事の守部幸一さん。津波が襲ってきたときに職員が組合の建物2階から撮影した写真をみせてくれました。
「こんな津波は、九十九里にきたことがない」
漁船の損傷は深刻で、エンジンが波をかぶっていたらまずつかえないだろうとのこと。
大きな船になれば1億から2億円はかかり、後継者がいなければ、廃業する組合員もいるだろうと心配そうに話しておられました。
被害は船だけではありません。漁港に車や、陸にあげてあった網、沈んだ船、沖から運ばれた砂などが大量に沈んでいるため、その引き上げ、浚渫(しゅんせつ)をしなければダメだといいます。
ダイバーがもぐって海底の状況を調べ、沈んだ物をひきあげていく、これだけでもどれだけの時間と予算がかかるか、検討もつかないとのこと。
ひきあげたゴミをだれがどうやって処分するのか。課題は次々にでてくるでしょう。
外で話し込んでいる人にも話しかけてみました。
「なに、国会からわざわざここまで来てくれたの?」
日に焼けた威勢のよい男性が、くわえタバコで目をまるくしました。
「東北の漁港は大変なことになっているから、千葉の漁港に早く復興してもらわないと」と私。
「そんなに簡単じゃないよ。組合の冷蔵庫もやられているから、水揚げしても魚の貯蔵ができない。測りもやられたから、水揚げ量がわからない。加工する工場もやられてしまった。これは大変だよ」
事態の深刻さは話を聞くほどに明らかになります。
現場に行って状況をつかむことの大切さがよくわかりました。
東北では避難所でも命がかかった事態が続いているだけに、千葉の被災者のみなさんは、「ぜいたくはいってられない」と要望も控えめです。
被害の規模が東北と比して小さいのは明らかですが、しかし、これからすぐに生活の危機に直面しかねない事態でもあります。
被災地の全体把握、そしてそれぞれの救援、復興に力をつくすしかない。その一助になるよう、私も尽力していきます。
漁港は、地面に乗り上げた漁船、沈んで頭のごく一部だけが見えている漁船、横倒しになった漁船があちこちにみてとれます。
海に沈んだ網をまきあげる作業に、何人もの若い人たちがかかりきりになっていました。
常務理事の守部幸一さん。津波が襲ってきたときに職員が組合の建物2階から撮影した写真をみせてくれました。
「こんな津波は、九十九里にきたことがない」
漁船の損傷は深刻で、エンジンが波をかぶっていたらまずつかえないだろうとのこと。
大きな船になれば1億から2億円はかかり、後継者がいなければ、廃業する組合員もいるだろうと心配そうに話しておられました。
被害は船だけではありません。漁港に車や、陸にあげてあった網、沈んだ船、沖から運ばれた砂などが大量に沈んでいるため、その引き上げ、浚渫(しゅんせつ)をしなければダメだといいます。
ダイバーがもぐって海底の状況を調べ、沈んだ物をひきあげていく、これだけでもどれだけの時間と予算がかかるか、検討もつかないとのこと。
ひきあげたゴミをだれがどうやって処分するのか。課題は次々にでてくるでしょう。
外で話し込んでいる人にも話しかけてみました。
「なに、国会からわざわざここまで来てくれたの?」
日に焼けた威勢のよい男性が、くわえタバコで目をまるくしました。
「東北の漁港は大変なことになっているから、千葉の漁港に早く復興してもらわないと」と私。
「そんなに簡単じゃないよ。組合の冷蔵庫もやられているから、水揚げしても魚の貯蔵ができない。測りもやられたから、水揚げ量がわからない。加工する工場もやられてしまった。これは大変だよ」
事態の深刻さは話を聞くほどに明らかになります。
現場に行って状況をつかむことの大切さがよくわかりました。
東北では避難所でも命がかかった事態が続いているだけに、千葉の被災者のみなさんは、「ぜいたくはいってられない」と要望も控えめです。
被害の規模が東北と比して小さいのは明らかですが、しかし、これからすぐに生活の危機に直面しかねない事態でもあります。
被災地の全体把握、そしてそれぞれの救援、復興に力をつくすしかない。その一助になるよう、私も尽力していきます。
ところで、瓦礫の山となった町を歩いているとき、「ニャーニャー」としきりに鳴く声。
身を固く丸めた猫が訴えるように鳴き続けていたのです。
目をやられてしまったのか閉じたまま。見えていないのでしょう。
毛並みも悪く野良猫かと思いましたが逃げる様子もありません。
そばによって、そっと手を伸ばして頭の後ろに触れると、ビクっと身体を硬くしつつもやはり逃げません。
なでてみて、ドロで固まった首輪に気がつきました。毛並みも海水を浴びて硬くなっているようです。
「怖かったんだね。よく生きていたね」
猫がじっとしていた家は、片づけを始めている様子。この家の猫でありますようにと祈らずにはいられませんでした。
身を固く丸めた猫が訴えるように鳴き続けていたのです。
目をやられてしまったのか閉じたまま。見えていないのでしょう。
毛並みも悪く野良猫かと思いましたが逃げる様子もありません。
そばによって、そっと手を伸ばして頭の後ろに触れると、ビクっと身体を硬くしつつもやはり逃げません。
なでてみて、ドロで固まった首輪に気がつきました。毛並みも海水を浴びて硬くなっているようです。
「怖かったんだね。よく生きていたね」
猫がじっとしていた家は、片づけを始めている様子。この家の猫でありますようにと祈らずにはいられませんでした。
上の写真はすべて私が撮影したものです。
左は、海沿いから少し内陸に入った場所。保育園が液状化で地割れを起こしていました。
砂鉄採取の跡地を埋め立てた地域が、広範囲に液状化し、家が逆さまの「へ」の字のように歪んでいたり、傾いたり。
市長さんの記憶では50年ほど前まで砂鉄採取をしていたとのこと。
東京湾岸の埋め立てよりもかなり前に造成された地域でも、これほど深刻な液状化被害が起きることに驚きました。
左は、海沿いから少し内陸に入った場所。保育園が液状化で地割れを起こしていました。
砂鉄採取の跡地を埋め立てた地域が、広範囲に液状化し、家が逆さまの「へ」の字のように歪んでいたり、傾いたり。
市長さんの記憶では50年ほど前まで砂鉄採取をしていたとのこと。
東京湾岸の埋め立てよりもかなり前に造成された地域でも、これほど深刻な液状化被害が起きることに驚きました。