日本共産党 田村智子
コラム

【09.02.06】都庁ではじめての「原爆展」

谷川智行さんと45階展望室へ

 
「東京原爆展」が都庁舎で開催される、嬉しい驚きです。
第1庁舎は「バベルの塔」みたいで、威圧的な外観はほんとに気に入りません。

ここで「原爆展」ができる――「権威」の象徴のような庁舎を、都民のための庁舎に変えていけるかも、そんな希望も感じてしまいます。

会場は45階南展望台。
高速エレベーターをおりると、明るいガラス張りの部屋にレストラン、売店。
アジアの言葉がとびかう観光地です。

その一角にパネル展示がありました。
谷川智行さん(比例東京ブロックの予定候補)と待ち合わせて、じっくり展示を見て歩きました。

子どもたちにもわかりやすく書かれた説明文。
核実験の犠牲となった子どもや兵士の写真。
水爆実験が繰り返された南太平洋の島では、「死の灰」が降り積もるのを喜んで、子どもたちが灰を身体に塗りつけて遊んだと記述がありました。
放射性物質でやけただれた足が痛々しい・・・。

被爆直後の写真は何度見ても胸がつまります。
真っ黒にやけた頭蓋骨、身体は骨にはなっていません。その横にたたずむ女性。
「これが母なのか」「このあたりが家ならばそうかもしれません」。

広島、長崎の資料館からお借りした、被爆の事実を刻んだ品々。
東京でこうした資料に再開できるとは。

会場には制服姿の高校生、中学生が何人もいました。
たまたま観光で都庁に来た人も、自由に見て回れるところがいい。

私たちが熱心に見ていると、「ぜひ感想文を」と声をかけられ、そのまましばらく被爆者の方とお話ができました。
「B29がすーっと飛んできて、原爆を落とすところまで見ていたんです」
閃光に「焼夷弾だ、伏せろ」と先生が叫んだとか。

山の陰にいて助かった、たまたま家で休んでいて助かった。
けれど助かったことは被爆者の方々の苦しみになってしまったのです。
「同級会をやろうにも、クラスで生き残ったのは私だけ」

なぜ今原爆展なのか。
被爆者のみなさんの苦しみが終わっていないから、
核兵器が廃絶されていないから、
日本政府もアメリカ政府も、原爆投下の過ちを認めようとしないから、
被爆者の皆さんの体験を直接聞くことができるのは、もう多くの年月は残されていないから。

私の子どもたちにも見せたいのだけれど、土日は私が仕事で無理。
自分が子どものとき、被爆実態に向き合うことで相当な葛藤があっただけに、いつ子どもたちに生々しい事実を伝えるか、実は悩んでいます。

私は子どもたちに何を伝えられるのか、被爆者の言葉を聴くことのできる最後の世代となる私の子どもたち。
母親としての責任も感じます。