コラム
【08.08.06】灼熱の広島の地で
原水爆禁止世界大会が終わりました
広島駅そばの宿舎(ホテル)を出たのは、朝7時過ぎ。
通常は午前7時からのホテルの朝食が、この日は特別、午前6時からに。
8月6日が「特別の一日」であることを実感します。
ホテルを出て、平和記念公園までの道を黙々と歩きました。
最高気温35度の天気予報。すでにまぶしい陽射しです。
広電「八丁堀」駅。戦災をふせぐため建物が壊されていた町だそうです。
あの日も、勤労奉仕の若者たちが家屋の取り壊しをしていて・・・。
紙屋町。爆心地に近く、熱線で焼かれ、爆風で壊され、地獄となった町。
ここから平和記念公園までは、市民のみなさんの列について歩きました。
制服姿の中高校生。白か黒、灰色の服に身を包んだ人たち。
広島市主催の原爆犠牲者慰霊式典。
「広島市」の腕章をしたたくさんの人が、おしぼりや冷水を提供し、高齢の方には声をかけて案内する――恒例のことかもしれませんが、胸にじんわりとしみる光景でした。
広島市長の式辞は、核兵器廃絶を実現するという決意の強さが貫かれています。
その力は、市民の力、都市の連帯であると述べる姿には感服します。
福田首相を目の前にして、政府にぎりぎりと行動を迫る迫力がありました。
式典でどうしても自分の耳で確認したかったのは、福田首相の言葉です。
とくに原爆症認定裁判をうけて、被爆者全員救済の決意を語るかどうか。
「一人でも多くの」「できる限り」・・・
あいまいな言葉に、周辺から「全員となぜ言わない」とつぶやくような批判の声が聞こえてきました。
核兵器廃絶も被爆者への支援も、すべてが「あいまい」。
福田首相らしい式辞、「たたかい(運動)なくして、前進はありえない」のです。
式の閉会少し前に、会場を少し離れて、「平和記念資料館」前の列に加わりました。
18年ぶりの広島、ぜひもう一度訪ねたかったのです。
世界大会閉会総会までの約1時間、じっくり見てまわりました。
高校生の時と同じように、個人用の音声案内の機械を手に。
被爆の実相を伝えるコーナーでは、吉永小百合さんの声が機械から流れてきます。
展示されている衣服、弁当箱、黒焦げの三輪車等々。
亡くなった方がどんな様子だったのかが静かに語られると、単なる「展示品」ではないことが痛々しく伝わってきました。
「黒焦げの弁当箱」――息子を探し回ったお母さんが、何人もの黒焦げの死体を確認して歩き、やっとたどりついた遺品。
弁当箱に刻まれていた名前がなければ、わからなかった。
息子さんは、この弁当箱をおなかに抱えるようにしてうずくまったまま亡くなっていたそうです。
探して展示品には、最後の方で再会しました。
人骨をまきこんでしまった瓦礫。
溶けたビンなどと一緒に置かれているのは切なすぎる・・・。
ここには確かに命があったのに・・・。
気がつけば、閉会総会の時間が迫っていました。
今の私は、この現実を継承し、未来につなげる道がみえています。
核兵器への怒りだけでなく、廃絶してみせるという意欲があります。
高校生の時、ぼろぼろ涙を流しながら、ふらつきながら降りた資料館の階段を、
今度は、一歩一歩を確認するように降りていきました。
私の原点をふみしめている、そんな気持ちで。