プロフィール
民青同盟の専従として活動
1995年、長崎にて
大学卒業後、すぐに日本民主青年同盟に就職。これには故郷の両親は泣いて反対しました。どんな仕事をするのかもわからなかったでしょうから、その時の親の気持ちを考えると、胸が痛くなります。
バブル時代の真っ只中での就職先としては、給料は安いし、事務所は古い。でも、やりがいに満ちていました。東京都委員会勤務のときは、「湾岸戦争をやめろ」「日本は協力するな」とピースライブをしたり、新宿歩行者天国でダイインをしたり。平和への思いをぶつけて行動しました。
中央委員会勤務となってからは、「われら高校生」という高校生向けの週刊新聞発行にかかわり、高校生の進路、「なぜ学ぶのか」、恋愛と性のなどなど、高校生とともに考え話し合える新聞にと頭を悩ませながらつくっていました。
ところで民青同盟時代に私はテレビ出演しているのです。1995年の参議院選挙のとき、TBS「ニュース23」で日本共産党を応援する青年団体をとりあげる企画があり、密着取材を受けたのです。「どうして共産党を応援するのか、まじめに取材したい」という説明に取材を了承したのですが、実際の放送は、民青同盟をなかば揶揄するもので、テレビの前で悔し涙がこぼれました。取材内容や発言を自由に切り貼りできる、テレビのおそろしさを垣間見る貴重な経験でした。2回目は、あの「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)。戦後50年企画で、いろんな青年団体を集めて議論するという内容。「大東亜戦争は正しかった」と主張する右翼団体の発言に真っ向から反論、朝まで楽しく参加しました。生放送は、緊張感はありましたが、発言の切り貼りはされませんから納得のいく内容でした。