コラム
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【13.08.08】長崎の爆心地へ
原爆資料館が語る歴史と希望
8月8日、赤嶺政賢さん、井上哲士さん、長崎県議の堀江ひとみさんと一緒に、原爆病院、被爆者の「恵みの丘」を訪ねました。午後3時過ぎ、予定の日程を終えて、一人で市電に乗って爆心地に向かいました。
長崎の原爆資料館を訪ねたのは、20年以上も前のこと。建物も展示内容もすっかり変わっていると聞いていました。
時を遡るように、螺旋の通路を降りて入場口へ。
被爆後の浦上天主堂など、破壊された建物の一部を再現するかのような空間。
被爆者の写真が映像として映し出されます。
無残な姿となった死者をクローズアップして行く映像。
目をそらさずに知ってくださいと、語りかけているようです。
ガラスと溶け合った手の骨。あなたはガラスの器を持っていたのでしょうか。お母さん?それとも娘さん? あなたは誰なのでしょう。
山口仙二さんが、半身のケロイドを示す写真。絞り出すように、核兵器廃絶を呼びかけていた生前の姿と重なります。
自分の身体を見せることに、どんな葛藤があったことでしょう。これでも、核兵器を使うのか、作り続けるのか、問いかける声が聞こえてくるようです。
こうした被爆の実相の展示は、何度でも目に焼き付けなければという気持ちでみました。
衝撃を受けたのは、その先の展示です。
何枚かの被爆の絵画。説明文には、強制連行された韓国や中国の人たちのことが書いてあったのです。
墨で荒々しくカラスが描かれた絵画は、よくみると人間の無残な姿が。
放置された死体にカラスが群がり、目玉を食べる肉を喰らう、死んでも朝鮮人は放置され差別された…。
最後のコーナーにも驚きました。
原爆投下にいたる戦争の歴史を一気にみせる映像があったのです。
日清戦争から始まった日本の領土拡張、日露戦争後、大正デモクラシーで民衆の運動が日本を覆う。しかし関東大震災で不安の時代に。軍部のクーデターと台頭。
朝鮮半島から中国大陸、東南アジア、南太平洋の島々へ、日本の覇権の拡大も地図で示して行く。
原爆の被害と共に、日本が侵略戦争によって他の民族を苦しめたことにも、目を背けない。
外国人被爆者が受けた苦しみを隠さない。
この展示には、相当な議論があったことでしょう。なんと深い展示なのか。
最後のコーナーは、原爆投下後の国際社会の歴史。
核実験がどれだけ繰り返されたか、核弾頭のイラストが示しています。
核実験による被曝者の証言も、ネバダ、ニューメキシコ、南太平洋の諸国などで取材されています。
同時に国際社会の核兵器に反対する動き、そして、増え続けた核実験がゼロになっていくことも示されます。
1987年、高校の修学旅行で広島の原爆資料館を訪ねたとき、私の胸には絶望が刻まれました。
これほど悲惨な事実がありながら、なぜ核兵器は増え続けるのか、人類はそれほどまでに愚かなのか、という思いでいっぱいになったのです。
その時の思いとの対比に、胸が高鳴りました。
今、原爆資料館は、絶望ではなく、希望を発信している。
そういう時代をつくってきた一端に自分もいるんだ!
資料館を出て、爆心地公園に向かいました。
公園に続く橋、護岸は子どもたちが描いた壁画が鮮やかに彩られ、平和の泉に映し出されています。
爆心地に立つ御影石の石柱。
そのそばの階段を降りると、どうしても見ておきたかった小さな展示がありました。
被爆した当時の地層です。護岸工事で発見され、一部をガラス越しに見えるようにしたのです。
かけた茶碗、瓦、様々な物体が瓦礫になって、土に埋まっています。
当時の地面にそのまま盛り土がされて町がつくられていったことがわかります。
堀江県議が、訪問の移動時間に、この場所を教えてくれました。
「爆心地公園は、桜がとってもきれいなところなんですよ。でも、そこで花見をする人は、絶対にお酒は飲みません。あの下には、亡くなった方の骨があることを、みんな知っているんです」
業火に焼かれ、ガラスと溶け合って展示されている骨、掘り出すこともできずに、今の町の下に置かれ続ける骨。
核兵器のむごさを、想像力を総動員して頭に、胸に刻みつけなければ。