日本共産党 田村智子
コラム

【12.07.15】おめでとう!党創立90周年

我が家の7月は誕生日ラッシュ

朝から、気温がぐんぐん上がっていくのがわかります。
カンカン照りの陽射しは、「夏だ! 連休だ!」とアピールしているよう。

汗をかきかき、党本部に到着したのは午前9時過ぎ。
公務職場の後援会が一日かけての研修会、私に65分の講演依頼があったのです。
3連休の中日、夕方までスケジュールびっちりの研修会、この熱意とやる気に頭が下がります。

国会開会中に、まとまった話を準備するのは、なかなかに苦労があります。
とにかく、情勢が予測をこえて変化する、演説内容も変えなければ通用しません。
そのうえ質問前は、頭の8割9割は、質問の内容を考え続けています。
演説が質問内容にしばられそうになるので、視野を広く、頭の切り替えをしなければ。

というわけで、今朝まで講演の内容を練り直していたので、話し始める直前まで気がつきませんでした。
7月15日、という日の意味。
「今日は何の日、1922年7月15日、日本共産党が創立しました」――今朝、ラジオの「何の日」のコーナーでそういう紹介があったかどうかは、聞き逃しましたが、党創立90周年の記念日だったのです。

講演内容は、それを意識したものではありません。
国会情勢、「社会保障と税の一体改革」を中心に、本会議質問をふまえた内容。
「この記念すべき日に、みなさんの前で話ができることをとても嬉しく思います」と話し始めるのが精いっぱいでした。

労働者も人間だ、搾取され戦争で使い捨てられ、貧困にあえぎ病を治すこともできない、この現実を変えなければと、文字通り、命懸けでつくられた政党が日本共産党。
「共産」の党名、当面の社会変革の目標に「国民主権」を掲げれば、命を奪われてもおかしくない、そういう弾圧の時代に、覚悟の上で党をたちあげた。
しかも、党創立のメンバーは全員、私よりもはるかに若い青年たち。

この歴史を振り返るたびに、若者たちの真剣さ、ひたむきさ、新たなものを生み出そうとする苦悩、試行錯誤のなかでも前進をあきらめない強さを思わずにいられません。
自分はそこに一歩でも近づいているのだろうかと、考えずにはいられません。

彼らの「弾圧との闘い」があったから、今日の党がある。
日本共産党があったから、私は、自分の生きる意味を大きくとらえることができた。
紡いで紡いで紡ぎ続け、新たな紡ぎ手が次々に生まれいく、それが日本共産党の歩みなのだと思います。

ところで、党創立の7月、実は私が生まれた月であり、夫が生まれた月でもあります。
我が家にとっては誕生日ラッシュ。
家族そろって食事をする、ケーキか、おいしいお酒を加えて。
国会の会期が延長されても、その時間だけはなんとか持つことができました。
(日本共産党の誕生日にも)

この年になると(7月4日で47才になりました)、「あ〜、誕生日がきてしまった…」というのが率直な思いですが、
夫の誕生日の晩御飯のときは、せっかくなので、「おとうの生まれたころのことを話してもらおう」と水を向けて、赤ちゃんの時のエピソード、中学・高校の頃はなぜか女子に大変「もてた」という自慢話も拝聴しました。
子どもたちの疑いの目に、「そうだよ、若い頃は、結構もててたんだよ」と私も夫を応援。
今度は、娘からあきれたような視線が、私にまで飛んできました。

子どもの誕生日には、「あなたが生まれた時は」という話を毎年していました。
息子は、私のお腹のなかで、私と一緒に相当力んで、頑張って出てきたようで、初うんちを私のお腹に残していた(胎盤と一緒に出てきて、助産師さんに笑われました)とか、
娘は、生まれる前に、息子と父親で名前を決めていたこととか。
(あまりに純和風な顔立ちに、私は別の名前にしようかとひそかに考えていたのですが…)

これが10年以上続くと、子どもたちには当たり前のエピソード。
兄の初ウンチのことなど、娘はにやにやしながら話しています。

でも、親の子どもの頃ことって、実は子どもは知らないことが多いのではと思い立って、夫に話をむけてみたのです。
生まれた時のこと、私も両親から聞いた記憶がないのです。
今度、実家に帰ったときには、じっくり聞いてみようと思います。
この年になると、誕生日は自分の両親に感謝する日になるのかもしれません。