日本共産党 田村智子
コラム

【08.11.17】上田耕一郎さんのお別れ会

やっぱり上田さんは現代の豪傑だった

10月30日、地域の訪問活動しているときに、「上田耕一郎さんが亡くなられたってニュースで報道していましたよ」と訪問先で聞かされました。
「えっ!」と絶句。

そして今日のお別れ会、豪快な上田スマイルの遺影は現役の国会議員の姿そのものでした。
ゆかりの方々の「お別れの言葉」は、上田さんの人生を青年時代から今日まで物語るものばかり。

赤旗編集長時代を語ったのは吉岡吉典さん。
「党の方針・政策と、自分が取材した事実が異なったとき、どちらの立場で記事を書くか」と、記者の会議の場で議論をさせたそうです。
「事実が何よりも重要。党の方針が事実とかみ合わないならば、方針を発展させなければならない」――赤旗記者の取材の意義をこんなに深く考えて実践していたんですね。

参議院でのエピソードは吉川春子さん。
PKO法案の採決で牛歩戦術で抵抗した議員団のしんがりを努めたのが上田さんだったそうです。
議長が何度も「上田君、すみやかに投票を終えてください」と呼びかけても、演壇の階段の下で一歩も動かなかった上田さん。
どんぐりまなこを見開き、鬼の形相での抵抗に、どんな思いがあったのか。

このエピソードには涙がほほを伝いました。
牛歩国会を徹夜で傍聴した日々と思い出しました。
戦後、初めて日本が兵士(自衛隊)を海外に送る、そんなことが許されるのか、黙っていていいのかと、身が焦がれるような思いで国会にかけつけた日々。

遺族を代表しての息子さんのあいさつにも、感服しました。
議員引退後、「戦争論」執筆への情熱を燃やし、国内外の「戦争論」を読破しようとしていこと。
病床でもノートをつづり、論文の構想を練っていたこと。
命の続く限り、理論活動から離れようとしない情熱は「ものすごい」としか言いようがありません。

この豪傑の議席を私は受け継ごうとしているのか…。
自分の未熟さ、至らなさ、努力の足りなさを、こんなに痛感したことはありません。

学生時代、私たちは枠にとらわれない上田さんの演説に魅了されていました。
国会での論戦の鋭さに、心酔していました。
自身の選挙での鬼のような迫力に怖れをなしていました。

そのすべては、自身の尽きることのない努力によって築かれていたのですね。
受け継ぐものも大きさをしっかりとみすえて、
上田さんの背中を追いかけるつもりで、歩もうと決意しています。