日本共産党 田村智子
コラム

【09.03.17】娘と携帯電話「論争」

子育て環境の複雑さに頭が痛い・・・

息子の剣友会の総会が終わって帰宅すると、パジャマ姿の娘がパタパタと出迎えてくれました。
にんまりした笑顔で言い出したのは「塾に行きたい」。

「いつから勉強が好きになったの?」――突然の要望にとまどいつつ、こんな言い方で切り返してしまいました。
「**ちゃんが行ってる塾に行きたいの」
「なにを教えてくれるの?」
「いろいろ」
「なにを勉強したいの」
「だから、いろいろ」

どうも要領をえません。
昨日は算数のプリントに「もうやだ。あ〜面倒くさい」と言い続けていたのですから、なんだか「裏がある」ような・・・。

娘との対話を聞いていた夫が「塾に行く前にやりたいことがあるんでしょ」と、なんだか意味ありげな笑いをうかべて一言。
「携帯で**ちゃんと約束してから塾に行くの」と娘。

これでピンときました。
友達と話をしていて「塾に行けば携帯を持てる」と作戦をねったのでしょう。
とうとうきたか! さあ、どう話そうか・・・。

娘のいう塾は家の近所です。終わる時間も6時前。
安全のために携帯が必要と言うわけではなさそうです。
「なんで塾に行くのに電話しなくちゃいけないの?」
「**ちゃんと待ち合わせるから。外で遊んでいたら電話できないでしょ?」

娘は3年生になった頃から「携帯がほしい」と度々言っていました。
使わなくなった通話できない携帯電話を夫からもらい、ごっこ遊びで使ったり、写真を撮ってみたり、おもちゃにしています。

本物をおもちゃにしたいだけなのだと思います。
高価なおもちゃをほしがるのと一緒。
わがままを認めるわけにはいかないというのが私の本音。

ところが携帯電話となると、娘もおもちゃをねだるのとは違う「理論武装」をしていました。
「遅くなったとき、おかあ(母のこと)にすぐ電話できるでしょ?」
「安全のために子どもに携帯を持たせよう」、そんな宣伝はあふれています。
通話先限定のものを安全のために持たせている家庭もあるでしょう。

私の帰りが遅くなったとき、家の電話がつながらないとあせります。
「安全」のためにと考えないわけではありません。
それでも、本来、子どもが持つべきものではない!!という立場をゆずれないのです。

遅い食事を終えて風呂場に行った私をおいかけるように娘がやってきて、ドアをはさんでの対話(言い合い?)が続きました。
「どうして電話をする必要があるの?」
「塾に行くとき待ち合わせに遅れたら心配するでしょ。だから、今から行くよって電話するの」

「家の電話や、公衆電話を使えばいいでしょ。テレフォンカードを渡すから」
「外の電話なんてどこにあるか知らない」

「友達に見せびらかすことになるでしょ?」
「トイレとか隠れて電話するから」

色々なやりとりをしながら、最後に私が言ったのは、
「携帯は、持っていると安全なことより、危ないことが多いと思うよ」
小3の娘には実感はできないかもしれません。
通話先限定の携帯にすれば安全なのかもしれません。
けれど、いつまで「限定」ができるのか。便利で面白い使い方に心が流されていかないか。

最後には娘は泣き出しました。
その姿をみながら、なんて子どもにとって生きにくい世の中なのか、親にとって子育てが難しい時代なのかと、ため息がでてきます。

「より多く消費させよう」という資本主義の抑えようのない奔流。
幼児向けのハイヒール、ミュールまで当たり前に店に並び、
子どもが大人の真似を当たり前のようにして、化粧品やアクセサリーが手軽に買える。
それが子どもの成長・発達にとってどういう意味をもつのかは、「自己責任」ということか。

携帯電話を初めて持ったのは、初めて候補者になった10年前。
そのときは「どこにいても仕事の話ができてしまう」ことに違和感をもちました。
「どこにいるのか」を常時明らかにしていなければいけないのか、という気持ち。

メールが当たり前になると会話が減っていく。
メールの文章に「冷たい言い方にとられちゃうかな」と表現を変え、直接話せばなんてことないのに、と自分で苦笑したり。

子どもどうしのつながりが携帯電話でどう変わってしまうのか、心配でたまりません。
安全と危険をはかりにかけ、便利さとそれによって奪われるものの大きさをはかりにかけ、
これからも「携帯論争」は続くことになるでしょう。