コラム
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【11.09.05】畑田重夫さん米寿記念のシンポジウム・祝賀会
全国から「教え子」のみなさんが大集合
国際政治、そして憲法について精力的に研究・講演にとりくまれている畑田重夫さん。88歳の誕生日に、米寿記念のシンポジウムと祝賀会をと、ゆかりのある方々が実行委員会に名前を連ねました。
私もその一人、そしてシンポジウムにはパネラーとして参加しました。
シンポジウムは、小森陽一さんがコーディネーター、NHK出身で「放送を語る会」運営委員の戸崎堅二さん、私、そして基調講演をされた畑田重夫さんがパネラーです。
畑田さんとの出会いは、学生時代です。
1987年に、社会党と共産党との共闘が崩れた都知事選挙となり、複雑な情勢のもとで勇躍して「革新都政をつくる会」の候補者として名乗りをあげたのが、畑田重夫さんだったのです。
当時、私は日本共産党に入って1年半。革新都政も、社共の革新統一時代も知りませんでした。
畑田重夫さんが、軍隊のつらい経験から、平和一筋、日本国憲法を常に持ち歩き、実践する生き方を貫いていることを知り、心底、尊敬したのです。
学生のなかで特に話題になったのは、男女平等を貫こうと、結婚式で新郎新婦がじゃんけんをして姓を決めたというエピソード。
日本国憲法は、学ぶだけではなく、自ら実践するものなのかと、大きな衝撃を受けました。
「世の中には、こんなすばらしい人がいるんだ!」――心から尊敬し推薦できる候補者だと、私も友人たちも元気に都知事選挙の応援活動をしました。
他の候補者の主張や経歴をみて、「畑田さんが一番すばらしい。絶対に勝てる」と本気で思っていました。
それだけに選挙結果にはがっくりきました。21歳の私には、「大人社会」への疑念・不信さえ生まれました。
しかし、畑田さんが「都政問題研究会」を自ら立ちあげて4年後に向けてすぐに行動を始めたことを知り、がっかりしているわけにはいかないと励まされたことも思い出します。
そして4年後、1991年の都知事選挙は、湾岸戦争のさなかの選挙となりました。
私は、青年向けの「畑田さん紹介ビデオ」の撮影のため、ご自宅までおしかけて2時間以上、ざっくばらんにお話を伺いました。
撮影の前、年賀状の束をみせていただき、西鉄時代からのライオンズの大ファンで、ファンクラブの役員もされているを知りました。
現役選手や監督からの直筆の年賀状を嬉しそうに見せてくださる畑田さんに、政治の場面とは違う一面をみて、親近感がぐっとましました。
湾岸戦争に日本は自衛隊を派遣するのかどうか、明確に「海外派兵はやってはならない」と語る畑田さん。
それは自らの生き方をかけてものだったのだと、米寿記念の基調講演をお聞きしながら実感しました。
シンポジウムの中でも、この出会いにも触れながら、原発問題、20世紀から学ぶべきことなどを短い時間でしたが交流しました。
このシンポジウムの一番前の席には、自民党・小渕政権時代の官房長官だった野中廣務さんの姿がありました。
畑田さんと京都の旧制中学の同窓生、その学校の校長先生が畑田さんのお父さんだったという縁。
政治家を引退した野中氏が、小泉構造改革への批判や、憲法9条を是とする立場での発言をしていたのは記憶に新しいところです。
しかも4年前(だったと思います)、日本平和委員会の機関紙、平和新聞の新春号で、畑田さんとの対談で登場。
これには私もびっくりして、実物を持ち歩き、各地の党や後援会の集まりで紹介したものです。
シンポジウム終了後、祝賀会では、初めに市田忠義さん(党書記局長)があいさつし、しめは野中廣務さんがあいさつ。会場は大いにわきたちました。
参加者の方々とも言葉を交わしましたが、沖縄、東北、名古屋、長野、とにかく日本全国からの参加に驚きました。
その多くが「畑田ゼミ」の生徒さん。
畑田さんはキャンパスでの講義だけでなく、労働者、地域の青年たちの学習会にどんどん足を運んでこられたのです。
その学習会で、憲法を学び、自らの「人権」を知り、政治変革の希望をつかんだ方々。
「恩師」として今も畑田さんんを慕い続ける姿は感動的でした。
人との出会いを大切にしたい、自らの生き方を日々問い直したい、歌あり踊りあり笑いにあふれる祝賀会で、厳粛な思いが胸にしっかりと刻まれました。
畑田重夫さん、どうぞお元気で。
(写真は、きたがわてつさんと一緒に歌う、畑田重夫さんと「畑田ゼミ」の教え子のみなさん)