「参議院東京選挙区の候補者に」と、党東京都委員会から要請され、2006年1月に翌年夏の参議院選挙の予定候補者として記者会見。全政党のなかで最も早い立候補宣言となりました。
「憲法9条を無傷で子どもたちに手わたす」――記者会見で述べた決意は、私のスローガンとなりました。
原爆被害の残酷さを直視した時から、核兵器廃絶の運動にとりくみ、湾岸戦争、自衛隊派兵に声を上げ続けた青年時代。
自分の人生を凝縮するような言葉として私の胸に宿った決意。
東京選挙区では3年前に日本共産党の議席を失っていただけに、絶対に負けられない選挙でした。
私の演説を偶然聞いたという音楽関係者からテーマ曲を作りたいと申し出あったり、宣伝カーが行く先々で歩道や駅前をあふれるほどの方々が集まってくださったり、日本共産党の活動に否定的だった両親や親せきが選挙ハガキを知人に送るからと申し出てくれたり。
本当に多くの方々に支えられた選挙。しかし、届かなかった…。
敗北会見をするために事務所に向かう道、「次は必ず勝つ、もう一度挑戦したい」という思いばかりがこみあげました。
テレビ中継でマイクを向けられた時も、口をついたのは「悔しいです。自民党の共倒れで議席を得られればと最後まで期待していたのですが」という言葉。
「東京で初めて日本共産党が議席を失ったことについて」という、いじわる質問にも涙を流すことはありませんでした。ただ、責任の重さは、この一言で胸にこたえました。
民主党の「政権交代」の流れが決定的になった参議院選挙。
その流れのなかで、日本共産党の役割を知らせることの難しさを体験しました。
選挙後しばらく、近所の方にお会いしても「応援いただいたのに、届かなくてすみません」があいさつになった日々。1か月ほどたったとき、娘に言われました。「もういっぱい謝ったでしょ」、息子にも言われました。「おかっちゃんは、がんばったよ」
掲げた公約は絶対に間違っていない。ならば議席に届かずとも、公約の実現にがんばろう。 要求は町にあふれている、切実さをましている、今一度、草の根からがんばるとき!