1984年、早稲田大学第一文学部に入学。すぐに早稲田大学混声合唱団に入り、毎日が歌、どこでも歌、ところかまわず歌という日々を送っていま した。プロの声楽家によるボイストレーニング、プロ指揮者、本格的な合唱とはこういうものかとサークル活動に没頭していました。大学の講義は、自分が何を 学びたいのかわからないまま、課題をこなし、サークル活動の合間に講義に出ているような毎日でした。
人生を変える事件は、入学した年の冬にやってきました。早稲田大学では来年から毎年学費を値上げする「スライド制学費」を導入すると発表された のです。在学生の学費には影響はありませんが、国立大学に入学した姉と比べ、私の学費が高いことを申し訳なく思っていただけに、「毎年値上げ」があまりに 理不尽に思え、「これで庶民の早稲田といえるのか」という疑問が芽生えていました。 当時、値上げの問題を詳しく分析し学生に訴えていたのが、日本民主青年同盟のメンバーでした。「学生運動=危険」と考えていた私は、近づかないようにと 思っていたのですが、「値上げしなくても大学は黒字」という分析に納得し、学費値上げの理不尽さに怒りを抑えきれず、少しずつ運動に協力するようになって いました。
法学部が口火を切った学生大会・ストライキ決議が、次々に他の学部にも広がっていきました。私は学生がストライキをすることには反対でした。他 の方法で訴えることができるのではと思っていたのです。しかし、学生大会で冷静な討論は「机上の空論」でした。ストライキはもっともわかりやすく、もっと も影響力のある「抗議」行動だったのです。第一文学部もストライキに突入。後期試験をなくしてしまう一大事が起きたのだから、大学側も学費値上げを再考す るのではないかと期待もしていましたが、学生の声は無視され、値上げ決定。私には道理のないやり方としか思えませんでした。
この一連の事件のなかで、民青同盟がまじめに社会の問題を考えて行動する団体であることを理解し、さんざん悩んだすえに加盟を決心しました。そして、自分もまわりの偏見をとくような活動をしていこうと、積極的に意見をいい行動しました。
大学卒業まで、合唱団と民青同盟、その合間の勉学という日々が続きました。勉学のほうは、残念ながら卒論のときに始めて「学んだ」と実感できたようなものです。