日本共産党の田村智子議員は15日の参院内閣委員会で、佐賀市で警察官が知的障害をもつ安永健太さんを「精神錯乱」者扱いし、「保護」の名でうつぶせに取り押さえ、後ろ手錠などの拘束をした直後に死亡する事件(2007年)について質問しました。
取り押さえた警官は無罪が確定。遺族や弁護団などは、警察の対応の見直しを求めています。
田村氏は、安永さんの事件の判決後、障害者差別禁止法が施行されており、その視点から警察行政の検証が必要だと指摘。安全を確保するはずの「保護」で危険な後ろ手錠は行うべきではないと主張しました。警察の対応は知的障害者の安永さんに恐怖心やパニックを引き起こしたのではないかとして、障害者への接遇を研修によって身につけることを求めました。
また、警察が言動だけで「精神錯乱」者と判断したことについて「障害の特性からくる言動であり、特性を正しく理解せずに『精神錯乱者』と認定するのは時代遅れだ」と批判。警察官職務執行法から「精神錯乱」の文言を削除するなどの検討を求めました。
2021年4月28日(水)しんぶん赤旗
○田村智子君
それで、今日は、残る時間、警察行政に関わって質問をいたします。
二〇〇七年、佐賀市で、知的障害を持つ安永健太さん、当時二十五歳が、自転車で蛇行運転をしているとして、サイレンを鳴らしたパトカーが追尾しながら止まりなさいと繰り返した。恐怖心があったのか、安永さんは走り続け、赤信号で止まっていたバイクにぶつかって転倒。警察官は力ずくで組み伏して歩道に移動させ、警察官五人で取り囲み、うつ伏せに倒して後ろ手の手錠を掛け、足も縄で拘束しようとしている最中、安永さんは心肺停止となって死亡したと。警察官は、安永さんを精神錯乱と判断したから保護したのだというふうに説明があると。
これ、佐賀地検で、警察官の取り押さえ行為と安永さんの死亡に因果関係はないとして不起訴になっています。その後、遺族の請求によって行われた裁判でも、警察官に対して無罪判決が確定しています。しかし、今も障害者団体や安永さんを支援する方々は、なぜこのような事件が起きたのかを問い続けておられます。この事件や裁判の後に障害者差別解消法が制定されるなど、障害を持つ方々への行政の対応には大きな発展が求められてきました。
その見地に立って、警察が保護だと言う行為の結果、知的障害者が命を落としてしまったこの安永事件について、国家公安委員長の認識を伺いたいと思います。
○国務大臣(小此木八郎君) お尋ねについての話ですが、平成十九年九月、佐賀市内において路上を自転車で蛇行し、信号待ちで停車中のバイクに追突した後に当該バイクを蹴るなどして暴れる男性を警察が保護した際、意識不明となり、同日、病院で亡くなられた事案であると承知いたします。
また、本件については、佐賀地裁において、担当警察官に対する特別公務員暴行陵虐罪の事実で付審判決定がなされましたが、平成二十四年に最高裁で無罪が確定し、保護の際の警察官の行為が違法であるとして慰謝料を求めた国家賠償請求においても地裁、高裁共に本件の違法性は認められずに、平成二十八年に最高裁が上告を棄却したことにより確定しているものと承知しています。
保護した男性が亡くなったことは誠に残念でありますけれども、本件に関する訴訟の結果にも鑑みれば、一連の対応に問題があったとは考えていません。
委員御指摘の障害を理由とする差別の解消に関する法律第十条第一項の規定に基づき、佐賀県警においては、合理的配慮の提供等を内容とする、佐賀県警察における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応要領を策定しているものと承知しています。
こうした状況を踏まえて、警察活動において障害者に接する場合には、その特性を理解して適切に対応することが重要であると考えており、保護についても適切に業務が行われるよう指導してまいりたいと存じます。
○田村智子君 無罪判決が確定していたとしても、警察官による保護の結果、直前まで元気だった安永健太さんは命を落とされたわけですよ。だから、なぜそのような結果となったのか、どうしたら防げたのか、障害者施策の到達点を踏まえて、警察行政としての検証が必要だというふうに私は思うんです。
警察の言う保護というのは警察官職務執行法第三条に基づくもので、精神錯乱者や泥酔者、迷子、病人や負傷者など、応急の救護が必要とする者を本来保護すべき人に引き渡すための応急措置とされているんですね。
でも、私、判決文とか事件についての報道とかを読んで、やっぱり警察官の行為は最初から、知的障害を持つ安永さんにとっては保護というよりも恐怖心やパニックを引き起こすようなものだったと思えるわけですよ。直接取り押さえたのは五人の警察官ですけれども、無線で応援要請したので、ほかのパトカーも次々と駆け付けて、裁判の中で認められたのは、十五人もの警察官が集まっていた、証言ではもっといたと。安永さん取り囲んで力ずくでうつ伏せにして、アスファルトに押さえ付けて、後ろ手に手錠を掛ける。これ、保護なんですかね。応急の救護と言えるのかと。
私、特に保護における手錠の使用、特に後ろ手の手錠、これがもたらす問題というのは検証が必要だというふうに思いますけど、いかがでしょうか。
○国務大臣(小此木八郎君) 手錠の使用についてですが、裁判例において、被保護者が現に暴行しているなど、自己若しくは他人の生命、身体等に危害を及ぼす事態に至るおそれが極めて強いような場合であって、その危害を防止し、その者を保護するため他に適切な方法がないと認められる場合に限り、真にやむを得ない限度と方法で行われるべきであるとされております。
また、同じく、いわゆる、おっしゃいました後ろ手錠については、通常の手錠使用ではどうしても措置し得ないような特別な事情のある場合などに限られるものと承知しています。
先ほども申し上げたとおり、佐賀地裁において担当警察官に対する特別公務員暴行陵虐罪の事実で付審判決定がなされましたが、平成二十四年に最高裁で無罪が確定し、保護の際の警察官の行為が違法であるとして慰謝料を求めた国家賠償請求においても地裁、高裁共に本件の違法性は認められず、平成二十八年に最高裁が上告を棄却したことにより確定したものと承知しており、一連の対応に問題があったとは考えておりませんが、引き続き、保護における手錠の使用が適切になされるよう、警察を指導してまいります。
○田村智子君 今御答弁あったとおり、真にやむを得ない限度。この安永さんは、ううとか、ああとか、この警察官の問いかけに対してそういう声を発することしかできなかった。腕を振り回したり足をばたつかせたりしていた。これが押さえ付けて後ろ手の真にやむを得ない限度なんだろうかということは、是非やっぱり検証してほしいんですよ。
過去の裁判例見ても、この後ろ手、後ろ両手錠、これは身体の自由が極度に制限され、場合によっては身体に危険を及ぼすこともあるから、通常の手錠使用ではどうしても対処し得ないような特別な事情のある場合のほか、安易にこれを用いるべきではないというような判例もあるわけですね。これ、是非検討していただきたいんです。
それと、私は、やっぱりこの後ろ両手錠で地面に押し付けて、これ、アメリカで起きたフロイド事件をやっぱり思い起こしてしまいますよ。
裁判でも焦点となったのが、何でそんな事態になったのかということだと思うんです。警察官は、安永健太さんが知的障害者であることを認識していなかったのかということが問われたわけです。そうであれば、そういう対応をやっぱり求められるわけですからね。大きな音出し続けたり、みんなで取り囲んだらパニックを起こしてしまうということも想定されるわけですから、別の働きかけができるわけですよ、知的障害者ではないだろうかというふうに思ったら。
ところが、裁判の中で警察官の証言は、一瞬たりとも顔は見ていなかったので分からなかったという、保護する相手に対して一瞬たりとも顔を見ていなかったと言うわけですよ。で、ううとか、ああとか、言葉を発しない、だから精神錯乱、あるいは薬物使用などを疑った、それで力ずくで。こういうことの検証をしてほしいんです、是非。
これ、二〇一五年、差別解消法に沿って様々な行政を行うに当たって、警察庁は、警察庁における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応要領を定める訓令、これ発出するに当たってパブリックコメントを募集しています。そこで、日本自閉症協会は、安永さんの事件を引きながら次のような意見を上げているんです。
警察庁は、二〇〇四年二月に、障害を持つ方への接遇要領を編集、発行しています。また、二〇〇八年には、明治安田こころの健康財団の警察版コミュニケーション支援ボードの作成にも協力しています。ところが、佐賀市の事件では、取り押さえた警察官は、警察庁作成の接遇要領を見たこともないと裁判で証言しています。もしも五人のうちの一人でも接遇要領の内容を知ってくれていたら悲劇は起きなかったでしょうと、こういうふうに指摘した上で、研修の義務化をしてほしい、しかも定期的に継続的に行ってほしいと。
そうやって警察官が障害の特性を学んで、特性に応じた接遇を身に付けるといった研修を義務付けてほしいんだというふうに求められていますけれども、いかがでしょうか。
○国務大臣(小此木八郎君) 障害がある方の特性を理解をし適切に対応することは、市民に接する機会の多い警察活動においても重要な事柄と認識しております。
こうした観点から、各都道府県警察において、障害者の人権に配慮した適正な職務執行を期するため、職務倫理に関する講座、講義、関係施設を訪問しての実習、部外の有識者を招いた研修会の開催など、警察学校や職場における研修が行われているものと承知しています。また、こうした警察職員に対する研修は、採用時や昇任時だけでなく、様々な機会を捉え随時行われているほか、障害者施設があるといったその地域の特性を踏まえて行うなど、工夫を凝らして行われているものと承知しております。
今後とも、障害のある方への適切な対応のため、様々な機会を捉えて教育を徹底していくよう、しっかりと指導してまいります。
○田村智子君 この日本自閉症協会のパブリックコメントがどう生かされたのかなと思って、その警察庁における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応要領を定める訓令、これインターネットで見ることできましたので見てみました。
もっとそこからひも付けられて具体化したものはあるとは思うんですけれども、その中では、主には幹部のところへの研修をやるんだというようなことが書かれていたり、あるいは、その後どういう研修やるのかというのを、回数を定める等々のことが書かれているんですけれども、私、大切なのは、基本的知識はもちろんだと思うんですけれども、実際の業務に即した具体的な研修であり、実践の中での検証だと思うんですよ。
だから、安永さんの事件を、是非、裁判で無罪になったからこれは誤りがなかったんだというふうに捉えるんじゃなくて、まさにこれは、私は率直に言えば、結果として接遇が間違ったから、障害者だと認識できなかったわけですから、障害者だと認識できないまま対応しちゃったわけですから。じゃ、何でこういうふうになったのか、どういうふうな対応をすればよかったのかという点での検証を、それが今日の到達点での検証だと思うんですよ、裁判当時ではなくて。今日の障害者施策の様々な到達点での検証をして、その後の研修にも是非生かしていっていただきたいということを重ねて要求しておきたいと思います。
それで、もう一つ、警察官職務執行法第三条で使われているこの精神錯乱という文言についても問いたいんです。
二〇一二年、福岡高裁判決は、精神錯乱を正常な意思能力、判断能力を欠いた状態と定義して、警察官の呼びかけに応じない、うう、ああしか言わない、両手を振り回すなどの警察官への抵抗という言動から、安永さんを精神錯乱とし、保護は相当であるというふうに判決が出されたんですけれども、しかし、これは、この判決の後に日本政府は障害者権利条約の批准国にもなっているということも是非捉えたいと思うんです。
安永さんは、知的障害等の特性によって、とっぴな出来事に対して正常な意思能力や判断能力を欠いた状態にあった。彼に対する不意の、しかも意に反する取り押さえ、これが興奮してしまった結果ではないのかと思えるわけですよ。そして、障害者団体の方々からも、知的障害や精神障害の特性、そこにゆえんする言動について精神錯乱と認定する、これは時代遅れの障害者観であるというような指摘がされているわけです。
この精神錯乱という文言を、警察官職務執行法第三条にあるのがふさわしいのかどうか。私は、削除ということも含めて検討することが求められると思いますけれども、いかがでしょうか。
○国務大臣(小此木八郎君) 警察官職務執行法第三条は、個人の生命、身体の保護といった警察の責務を遂行するための具体的な一方法として、応急の救護を要する者がいる場合に警察官がこれを保護すべきことを定めたものであり、同条第一項で保護の対象とすべき者を定めているところであります。警察としては、御指摘の用語自体は差別的、侮蔑的なものではないと認識しております。
いずれにせよ、一般の方と接する機会の多い警察官が障害の特性を学ぶことは重要と認識しており、引き続き、障害のある方への対応における意識の向上やその必要な知識の習得のための教育が徹底されるよう警察を指導してまいります。
○田村智子君 コミュニケーションが難しくて、それが理解されないというのは障害の特性なんですよね。精神錯乱ではないんですよね。この障害者の団体の方や安永さんを支援されてきた皆さんの訴えというのは、是非ちょっともう一度重く受け止めていただきたいということを繰り返しておきたいと思います。
私、改めて、この安永健太さんの事件というのは、つい最近ドラマで、これを基にしたドラマも放映をされて、御覧になった方もおられるかと思います。もちろんあれはノンフィクション、じゃなかった、フィクションで、安永さん事件が基ではあるけれども、フィクションのドラマではありました。
改めて、そのドラマや裁判の様々な記録も読んでみて、私は、当時の警察官の対応には、当たり前の私たちが暮らす日常の社会の中に障害者がいないことになっているというような対応だったんじゃないのかというふうに思えてならないんですよ。だって、誰一人、障害を持つ人なんじゃないかというふうに考えなかったんですもの、その行動が、言動が。
だから、そういうことから、やっぱり自閉的傾向があって、人とのコミュニケーション、意思疎通に困難抱えていても、自立して生きていこう、一人で頑張って生きておられる障害者の方がおられる、そういう方々の中で警察行政がどうあるべきなのかということを是非とも問いかけていきたいと思うんですね。
フロイドさんの事件ということを言いましたけれども、アメリカでやっぱり黒人の方が、別に犯罪を犯したわけじゃないんですよ、だけど、やっぱり様々な抵抗をした、怪しい、危ない人だと思われて、押さえ付けられて命を落としてしまった。そこからブラック・ライブズ・マターの運動がうんと広がったわけですよね。マイノリティーに対するちゃんとした視点を持たなければ駄目だと。
これは是非日本の警察行政についても求めたい、このことを申し上げて、質問を終わります。